たまりかけてる水を押し出したいがために 閉じ込めてる記憶を引っ張り出して 眼から水を出してあげた 

子どもの頃ねむれないとき わたしは ぱぱねれないよ、怖い夢見た と、隣の部屋でねむる父を呼んだ 父は両足でわたしの足を挟んで 両手でわたしの身体を包み 大丈夫だよ、と言って安心させてくれた ようやくわたしはねむることができたのだった

 

 

やさしかったひと、わたしもやさしくなりたいのです。 

 

ぎゅっと抱きしめてあげたかった。

わたしが子供の頃そうされたように。 

まだまだ流れ出てくるものがある、

涙以上のもの、

存在しないあなたにしてあげたかったいろいろなことが、たくさんたくさん出てくるので、くるしいね。時々はこういう風におもうことをゆるしてね、人のことを想うといつだってくるしさが伴うね、唯一無二の父へ。


ほろ酔いで帰ってきた杉田さんは、部屋に入ってくるやいなや押し入れを開き、いそいそとギターを引っ張り出して音の調整をし出した。今から部屋でギターでも弾き始めるのか、と思うとそうではなく、突然に「行く?」と私に聞いた。
行くって、どこに?
ベンチ。
ギター弾くの?
うん。
変なひと。
寝巻きの上に杉田さんのカーディガンを羽織って外に出る。

真っ直ぐにそのベンチに向かって、ケースの中からギターを引っ張り出し、いつもの場所に座って、少しの間をあけてから杉田さんはギターを弾いた。
私はその隣で、風にそよいでザワザワとゆれる葉と、その葉が地面に陰となって映っている様子をぼうっと眺めていた。

上を向いて歩こうを歌っている。いつもは控えめな声で歌い、抑えたような音で弾くギターも、今日はそういう遠慮が無く、音のなるままにギターを弾き、空に向かって歌を歌っていた。


ちょっといいなってひとがいる。
いいな、という感覚は出会ってお互いを深く知らない時だけキラキラしているものだから、なんだかこのまま会いたくない。知れば知るほど惹かれてゆくパターンもあるけれど、ずかずか領域に踏み込んで行くのは嫌だし踏み込まれるのも嫌だ。こうなってくると、もうパートナーとやらは自分に必要ないんじゃないかしらと思えてくる。しかしひとりだと危ないことも色々とあって、そんな時にひゅうっと遠くから見てくれて、助けてくれるひとがいてほしいなとおもう。ちょっといいなってひとは、あんまり話したことはないけれど、助けられた。
知らない間に隣にいて、春が終わってしまいましたねえ。と言われたので、春が終わるとうれしいです、と答えた。



そういえば3年前わたしは手紙を書くなどをしていて、こんなわたしの手紙でも待ってくれている人がいた。しかしそれはちょっと悲しいような形で突然終わってしまい、というか私がこれは駄目なことなんだろうなあとなんとなく察してやめたのだけれど、それ以来人にあんまり手紙を書かなくなった。
当時はその人にいろいろなことを伝えたく、紙とペンもっていると色々なことを素直にかけたから、伝えたいことというより消化しきれない何かを言葉に変えて、それを聞いてもらっていた。
いま思えばなぜその人だったんだろう?その人の前でわたしはあんまり喋るほうではなく、むしろだんまりとただそこにいて、まるで石のようだった。
でもその人はそういうことを許してくれるひとで、わたしにとってそれはいちばん心地よく、うれしく、やさしい時間だった。
メールでぶわっと何かを送るのはしっくりこなかったので手紙という形をとったのだけれども。
もう今じゃなんて書いたのか全然思い出せなくて、あそこに書かれてた言葉はあの時にしか有効じゃなかったのかもしれない。その行為も。
でもいまなぜだかおんなじようなことをしたくなってきている。ということは消化しきれない何かが芽生え始めちゃっているのかもしれない。それは全然わるい種ではなく、むしろ良い種。でも誰に伝えたいんだろう?こういうことをいま書いてることがちょっとずつ消化に繋がっているんだろうか。